2005年09月08日

「The Memory of Moon Light」

written by keruぴょん

男は堤防に立っていた。
憔悴しきったその目は、もはや光を失ったかのように
焦点が定まっておらず、自分がいまどこにいるのかさえわかっていないようだ。
男は無意識に、そう…全く自覚の無いまま…竿を片手にヘチに立っていた。

竿は、いつか使う日があるかもしれないと…男が常日頃から鞄に
忍ばせておいた極端に仕舞の短い磯竿だ。
長さはちょうど8尺…ちょっとブランクが細身だが、ヘチ竿の代用に
なるのでは無いかと考え、オークションで落札したものだ。

そして竿にセットされたリールは、この世界では有名なプラスティック製
のタイコリール…普通使われるよりも一回り小さなサイズだが、
この竿とのバランスを考えてわざわざこのサイズを選んだのだろう。
軽量化のために綺麗な穴あけ加工の施された、凝った造りのリールだ。

仕掛けはリールに巻かれたナイロンラインとフロロカーボンのハリスを
直結した極めてシンプルなものだ。
その先にはチヌ針と呼ばれるガンメタリックに輝く針がつけてあり、
ガン玉と呼ばれる小さな鉛のオモリが針に直接打ち付けてある。

男は虚ろな目で堤防を見渡すと、一匹の蟹を見つけ…物憂げな動作で、
しかし慣れた手つきでそれを捕まえると、そっと針に刺した。

その日の仕事が終わり、そのまま来たのであろう…男はスーツ姿のまま
その仕掛けを海中にそっと落とし始めた。
一定の間隔で堤防上を移動しながら、そして同じスピードで…
男はただ黙って仕掛けを沈めては引き上げ、また沈めては引き上げ…
同じ動作をまるで機械仕掛けの人形のように繰り返している。

永遠にも続くかと思われたその時間は、しかしやがて一瞬にして破られる。
日が落ちかけ、白く着色されたラインがもう見えなくなるかと思われたその時…
かすかにラインが一瞬だけ、しかし確実にフワフワと不自然な動きをしたのを
男は見逃さなかった。…いや、正確には体が自然に反応したのだろう。

突然、男が竿を持った右腕を大きなアクションで振り上げたその瞬間…
男の竿は大きくしなり満月のような弧を描いた。

光を失っていた瞳が輝きを取り戻し、男の意識は一気に覚醒していく。
なぜここにいるのか?いつからここにいたのか?
男には思い出せない…だが、いま何が起こっているのか、
この竿の先に何がいるのか…それだけはハッキリとわかっていた。

そう。忘れることは決してないであろうこのヒキ…。
いま男は自分が黒鯛という好敵手との戦いの最中にいる事を
しっかりと認識していた。

強暴なそのヒキは、ブランクの細いコンパクトな磯竿を根元から
まるで引き千切らんばかりにしならせ、糸鳴りしたラインは男の親指を
白く焼きながらリールから引き出されてゆく。。。

ふと男は今日の会議での上司の態度を思い出した。
まったく自分の意見に耳を貸さず、ただ自己保身のためだけに
無責任に事を進めようとする強引な上司と、この強暴なヒキが
一瞬オーヴァーラップしたのだ。
「いや…ぜんぜん違うさ。」…男は呟いた。
(コイツはあの野郎と違って、姑息な手なんて使いやしない。
…いつだって正面から全力でぶつかって来てくれる。
コイツは自分の血を流し、自分の命を掛けて戦うけど…
あの野郎はいつだって自分は血を流したりなんかしない。
犠牲になるのはいつも俺たち下っ端だけだ…。)

いつものヘチ竿とは違って頼りない磯竿の調子に戸惑いながらも、
男は辛うじて相手の力をなだめ、いなし…数分にも及ぶ戦いの末やっと
相手を水面にまで導くことが出来た。

「綺麗だ…。」男はそう呟いた。
水面に体を横たえた美しい銀色の魚体を見たとき、
男は愛した女のことを思い出していた。
初めて結ばれた夜…男の腕の中で女は長い睫毛を震わせながら
「永遠の愛」を囁いた。
その時の女が例え様もないくらいに神秘的で美しかった事を男は忘れていない。
(フッ…あの頃はアイツも可愛かったよな…。)

同時に男は、目の前の相手が…全てを覚悟したかのように
大人しくしていても…実は最後の反撃のチャンスを狙っている
事も思い出していた。
「オマエは最後まで裏切るなよ。」…そう言い聞かせるように呟いてから、
男は竿を立て…銀色に輝く魚体を引き寄せた。

仕事帰りに堤防に立った男は、当然だが玉網など持っていない。
そこで男は堤防の一段低くなっている場所まで相手を誘導し…
そしてハンドランディングするべく、そっと手を差し出した。
そう。まるで恋人に優しく手を差し伸べるかのように…。

男の手に寄り添うかのように…相手は静かに水面から引き上げられた。
すっかり日は落ち、ちょうど昇ってきた満月の光が滴り落ちる水の飛沫を
宝石のように輝かせる。
堤防に横たえた黒鯛は大きく肩で息をするかのように、エラを動かしている。
そして男は…いまや全てを思い出していた…。

「そうだ。…死のうと思ってたんだ…。」

上司が自分の考えを押し付けるだけの…形だけの会議が終わった後、
男は上司に別室に呼び出された。
「お前、もういらないから。お前みたいにパーソナルが強くて
システムに同調出来ないヤツは、会社組織には不要なんだよ。」
そう吐き捨てるように言い放った上司の言葉が、鮮明に思い出される。

リストラ…その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間…目の前が真っ暗になった。
この事実を家族…妻に、そして子供たちにどう伝えればいいんだろう。
何度考えても答えなんて出やしなかった。そして…
男は大好きな海を自分の最後の場所に選び、何も考えられないまま
海に足を向けたのだった。

全てを思い出したその時、男の携帯電話が小さく震えた。…妻からのメールだった。

[件名]
クソオヤジ!
[本文]
どこで何やってるのよ!連絡もしないで…この役立たず!

「そうだ…まだやる事があったんだ…。」
メールを一瞥した男はそう呟くと、鞄からなにかを取り出し
いきなりそれを黒鯛に押し当てた。
その瞬間、それまで大人しかったのが嘘のように黒鯛は激しく暴れ、
そしてやがてピクリとも動かなくなった。
その時、男の脳裏に浮かんでいたのは…20年間連れ添った…。

やがて立ち上がった男の左手には黒鯛が、そして右手には
月光を浴びて鋭く光るサバイバルナイフが握られていた。

「“もう一匹”…〆なくちゃいけなかったんだ…。」

そう呟いた男の口の端に、一瞬だけ冷たい笑いが浮かび…そして消えた。
男の去った後には、満月に照らされ…黒く濡れて光る血溜まり
だけが残されていた。(終)
posted by BDCメンバー at 13:51| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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